カンボジアだより
2013年07月24日
6年前までカンボジアでお仕事をされ、現在は、ニューヨーク在住でシーライツの翻訳ボランティアとしてもご協力いただいている会員の小味かおるさんが、久しぶりにカンボジアを訪問され、滞在中の様子をエッセイとして寄稿してくださいましたので、ご紹介します。
「6年ぶりのカンボジア」
シーライツ会員 小味 かおる
朝靄のなか起き始める町、激しいスコール、濃くて甘いミルクコーヒー、痩せこけた牛・・・。
13年間暮らしたのち6年前に離れたカンボジアは、目に見える都市部の発展と比べると変わらぬことも多く、生活の余裕からか諦めの極みからか、人々の穏やかさが増した印象でした。
(写真は、校庭に寝そべる痩せこけた牛 cKaoru Komi)
以前には見られなかった若者や子供の姿も見受けられました。中流家庭の子どもたちが、国立博物館やキリングフィールドで校外学習したり、交通安全の奉仕活動をしたりするのを見るのは新鮮でした。大家さんの三女はフォトグラファーとして海外を飛び回っていましたし、コンポンチャム市で働く独身女性は親許離れて一人で部屋を借りており、慣習に縛られずに人生を切り開く女性の姿に時代の流れを感じました。一方で、靴磨き少年や花売り少女、物乞いの子たちの姿は今でもあちこちに見られ、貧富の差が広がるなかで、彼らが努力と才覚で大きく人生を変える機会はむしろ減っているのかもしれません。
(写真は、行楽地で風船を売る少年 c Kaoru Komi)
C-Rightsがプロジェクトを実施しているスバイリエン州は、私も3年間(社)シャンティ国際ボランティア会の職員として3地域で初等教育環境改善事業を担当した地です。事業終了から10年、先生の世代交代は進んでいるようですが、教科書不足などは相変わらずで、3地域とも隣接する寺の方が立派になったのに対し、学校は簡素なままでした。
(写真は、あまり変わっていない教育現場 c Kaoru Komi)
学校で子どもたちと話して、意外なことがありました。「将来何をしたい?」と尋ねたら、「先生」とか「科学者」といった回答は予想通りだったのに対し、以前は多くの子が希望した「縫製工場で働く」という回答がなかったのです。理由は「もっと勉強を続けたいから」。隣に中学ができたり、各世帯の子ども数が減ったり、農業の機械化(娘たちの仕送りで購入)が進んで労働力がいらなくなったりする等、様々な背景があるのでしょう。
かつて村の女の子は、小学校卒業後または中退して、プノンペンの縫製工場へ出稼ぎに行くのがトレンドでした(すでに16歳だったり年齢をごまかして就職したりしていました)彼女たちは、給料の半分以上を家族に送り、正月にはジーンズをはき化粧して戻ってきて、子どもたちの憧れでした。
今スバイリエン州には経済特区が数か所あり、工場が林立しています。1年前に開業したそのうちの1つの日系の工場を訪問する機会を得ました。労働法により、従業員の月給は最低81ドル、保険手当5ドルと交通費13ドルと皆勤手当10ドルの支給があり、病欠は月7日まで有休です。この工場では昼食が食べ放題であるため、従業員たちは朝は食べずにトラックの荷台で揺られて来るので、毎日数人は医務室に駆け込むそうです。日本人の工場長さんは「カンボジア人は欲がない。それに国民の休日が多すぎる」と生産目標をにらみ、電力不足などの整備不足に頭を抱えながらも、誠心誠意カンボジアに貢献したいと励まれていて、頭が下がる思いでした。かつて、私は州内に農業以外の産業があったらどんなにいいだろうと願っていたのですが、この経済特区だけでも今後21社も増える予定で、ワーカー不足が心配されるという話には驚きました。
労働環境はかなりいいと思われるこの工場でさえ、もくもくと働くのは暑くて辛そうでした。半日学校で教えて50ドル程度をもらい農繁期は田んぼで働く先生稼業と、倍以上の給料でも通勤の苦しみプラス蒸し暑い工場での8時間労働と、どっちがいいかと問われたら、私は高校を卒業して教員養成所に行って先生になる方がいいと思ってしまいます。
でも、稲作用の肥料購入費のために多額な借金を抱えている家庭で生まれた子どもたちは親からのプレッシャーを受け、「夢」ではなく、「現実」として縫製工場で働かなければならないことも多いようです。
そんな子どもたちが「夢」を抱けることを願って、借金をしない有機栽培による稲作と野菜づくりを支援しているシーライツを今後も応援したいと思いました。